●HO CHI MINH CITY
Good by Vietnam
(HCMC観光の総括)
ベトナムとカンボジアは、20世紀中後半に青春を送った者にとっては、
苦い思いを伴う、東南アジアの2国である。
日本を出る前、筆者の心はけして、軽くはなかった。
冷戦時代、ベトナムは南北に分割され、
「北」は「社会主義国家」としてソ連、中国と親密な関係にあり、
「南」は米国が事実上占領する地であった。
1964年、「北」は「南」の併合を求めて米国と戦争を行い、1975年に勝利した。
今日のベトナム社会主義共和国の成立は、大国米国と戦い勝利した結果にほかならない。
当時、大国米国と戦った南ベトナム民族解放戦線は事実上北ベトナム正規軍であったが、
筆者を含めた世界中の人々は、社会主義の理想と民族自決の幻想を信じ、
解放戦線を南ベトナム人民の民族自決の決意に基づく非正規軍であると信じて積極的に支持した。
日本では、「ベトナムに平和を!市民連合(通称「べ平連」)」が結成された。
ベトナム戦争終結後も、その影響は隣国カンボジア、ラオスに及んだ。
とりわけカンボジアでは、1976年、ポル・ポト率いる
クメール・ルージュ(カンボジア共産党)が革命政権を樹立した。
クメール・ルージュは毛沢東主義を信奉する全体主義政党で、
西欧思想を廃し、カンボジア在住のベトナム人、カンボジアの知識人・宗教関係者、
自由主義的民衆を大量処刑した。
クメール・ルージュによって殺戮された人の数は、100万人規模だと推定されている。

さて、筆者はいま、3日間のホーチミン市(以下「HCMC」と略記)の観光を終え、
カンボジアに向かおうとしている。
今日のHCMCを訪れる日本の若者たちには、ベトナム戦争の記憶はない。
この地は活気ある南国の商都にしか映らない。
筆者は南ベトナム時代のサイゴン(HCMCは、戦争終結前はサイゴンと呼ばれた)に
行ったことはないのだが、
おそらく、いまのHCMCと当時のサイゴンに大きな差異は認められないと想像する。
「北」が「南」を併合しようとしたとき、米国は「ドミノ理論」を根拠にして、
「北」の進出を阻もうとした。
そして長い戦争があり、多くのベトナム人民と米国の若い兵士が命を落とした。
戦争は「北」の勝利をもって終結し、米国は「南」から撤退した。
そして、「南」の政権とかかわりの深かった人や社会主義体制を拒絶した人は、ベトナムを離れた。
そうした混乱から30年近く経過した今日、HCMCの姿は、
表面上、南ベトナム時代のサイゴンに戻ったように思える。
あの戦争は何だったのか――
ベトナム戦争に勝利した「北」は資本主義を否定し、
社会主義イデオロギーで「南」を染め上げようと図ったにもかかわらず、
その後の30年の帰結は、否定したはずの「南ベトナム」に戻っただけ。
当時、米国が「ドミノ理論」を放棄し、ベトナムへの干渉を避け、
民族自決の流れにまかせて南ベトナムから撤退していれば、
ベトナム統一は平和裏に達成され、そして、30年間にわたる社会主義の失敗を経て、
再び自由主義のベトナムに戻った可能性を否定できない。
多くの生命が無駄に失われたのではないか――
世界は「いま現在」を予見して当時のベトナム戦争に反対したわけではないものの、
米国の世界戦略と世界観が結果において、無駄に終わった事実ばかりはどうしようもない。
戦争はいけない。「聖戦」というのは幻想に過ぎない。
ところで、カンボジアからの帰国経路は、
シェムリアップ空港(カンボジア)→ハノイ空港(ベトナム)→成田空港(日本)であったのだが、
乗り継ぎのハノイ空港の暗さと時代遅れの佇まいが度を越していて、驚かずにはいられなかった。
ハノイ空港は小さい空港で、港内に設置された2~3軒の店舗には、
陳腐な民芸品風の土産物類がおかれている。
そして、暗い食堂には愛想のないウエーターが注文をとりにまわり、
いかにも官僚的な審査官が、乗次ぎ客の入国審査に応対する。
おそらく、社会主義時代の旧ソ連の地方空港がこんなものではなかったかと想像する。
ハノイといえばベトナムの首都であり、首都の空港はその国の顔のはずなのだが。
この空港は、「暗い社会主義」を引きずっている。

南北統一後のベトナムは、社会主義的統制経済からドイモイ政策を経て、
市場経済を導入したため、活気を取り戻した。
筆者は、資本主義と社会主義の二者択一をしようとは思わない。
そもそも、米国に占領された当時の南ベトナムが天国だったとは、
とても言えなかっただろう。
ベトナム戦争時代の南ベトナムは、米国の傀儡政権の下――
利権にまみれ、腐敗していたといわれた――民衆の生活は苦しかった。
一方の北ベトナムも、かつてのソ連、中国、東欧各国がそうであったように、
暗い「社会主義国家」だった。
「北」は、いわゆる「スターリン主義」に基づく、全体主義的官僚国家にすぎなかった。
南北を問わず、ベトナム民衆の暮らしは楽ではなかったはずだ。
「北」が社会主義を標榜して大きな犠牲を払って「南」を「解放」したにもかかわらず、
30年という年限を浪費して「南」に戻ってしまったのはなんという皮肉であろうか。
米国も大きな犠牲を払って「北」の脅威から「南」を守ろうとしたにもかかわらず、
ベトナムから撤退し、30年たったいまの統一ベトナムは、「北」ではなく「南」に戻った、
いや、戻ろうとしているのだ。
いまのHCMCには、学校に行かない子供たちがたくさん働いている。
物乞いも多い。
かりにも社会主義の理想が格差なき平等社会の実現と貧困の撲滅にあるのならば、
いまのHCMCの現実を社会主義体制と呼ぶことはできない。
いまのベトナム南部の大都市・HCM
Cは、自由主義経済の結果新しく誕生した中流層と、
自由競争の挙句に底辺に落ちた弱者・貧困層、
そして、目に見えない少数の管理者(共産党幹部、官僚等)及び富者によって
構成されているに違いない。
その実態は、かつての南ベトナムの首都サイゴンと同質であり、
他の自由主義経済下の国々と変わらない。
あの戦争は何だったのか――30年前とは異なる苦さが筆者を襲う。
