Sep-21-23-2008(3日目・4日目・5日目)
Ravenna:(総括)
ラヴェンナは西ローマ帝国の黄昏の街である。
西ローマ帝国がミラノから当地へ遷都(402年)をしたとき、
帝国統治者は東ローマ帝国の介入を望んでいた。
つまり、自ら統治する意志を失い、西ローマ帝国の滅亡をまつばかりだったのだ。
450年、先述したガッラ・ブラチディアがローマで亡くなり、
476年、ゲルマン傭兵隊長オドアケルによって、
西ローマ帝国、ラヴェンナは攻められ支配された。
東ローマ帝国皇帝ゼノンは、東ゴート族の王テオドリクスを差し向け、
オドアケルを殺害した。
ラヴェンナは、ゴート族の王が支配する地となった。
ゲルマン系の東ゴート族がローマ帝国領に移動を開始したころ、
彼らはアリウス派キリスト教に改宗していた。
ラヴェンナは、滅亡寸前の西ローマ帝国、新興の東ゴート族(ゲルマン族)、
そして、東ローマ帝国が交錯するところだ。
テオドリクス時代、ラヴェンナでは、アリウス派キリスト教の聖堂、教会の建設が進んだ。
ところが、東ローマ帝国の皇帝にユスティニアヌスが即位すると、
正統派キリスト教を支持する彼は、アリウス派の迫害を始めた。
テオドリクスも反撃を加え、東ローマ帝国と東ゴート王国は戦闘状態に入った。
テオドリクスの没後、514年、ラヴェンナの東ゴートは東ローマ帝国に敗北し、
当地は東ローマ帝国の支配を受けることになった。
ラヴェンナを支配したユスティニアヌス皇帝は、この街の復興に力をいれ、
ビザンツ文化の影響を受けた聖堂、教会の建設も進んだ。

しかし、それもつかの間の平和にすぎなかった。
712年、イタリアに侵入したロンゴバルト族が東ローマ帝国からラヴェンナを奪い、
また、東ローマがそれを奪い返すといった状況が続いたが、
741年、ロンゴバルトの王アストルフォの手に落ちることとなった。
ロンゴバルト族は、ラヴェンナの文化、宗教施設を破壊しつくした。
極めつけは、フランク王国の成立である。
教皇ステファヌス2世は、ロンゴバルトの支配から脱するため、
フランクの王ピピンに嘆願をし、
ロンゴバルト撤退の後のラヴェンナをピピンに寄進することを約束した。
784年、教皇ハドリアヌス1世は、フランクの王シャルルマ―ニュに対し、
ラヴェンナの建造物を分け与える許可を出したため、
当地のすぐれた宗教芸術がフランス等に奪い去られた。
西ローマ帝国が滅亡し、混乱の時代を経て、フランク王国が西欧を統一したとき、
ラヴェンナの黄金時代は遠い過去となっていた。
以上ラヴェンナに関する記述は、
『ラヴェンナ―モザイク・遺跡・自然―日本語版』
(ジャンフランコ・ブスタッキーニ著/サルバローリ書店)に基づいている。
